■一つの時代の終わり・新しい時代のはじまり?(その2)

 前回の記事では、日本に与えたブラジルサッカーの影響がとても強かったこと、そのことは日本人選手の技術力向上に大きな貢献があったものの、世界最高の個の能力を前提としたブラジル的なチーム戦術は日本のチームに合わなかったのではないかというところまでお話しました。

 さて、1992年に日本代表初の外国人監督としてオランダ人のマリウス・ヨハン・オフト氏が就任するわけですが、これは日本サッカー協会の大英断だったと思います。

当時も中東勢や韓国に対し日本人選手は個の能力、とくにフィジカル(当たりの強さ)では劣勢でした。

サッカー後進地域だったアジアは戦術で世界から大きく遅れをとっており、戦術面を高めて劣勢な個の能力をカバーすれば日本だって中東勢や韓国に対抗できるはずだと考えたオフト氏はスモールフィールド(コンパクトな陣形)・トライアングル・アイコンタクトといったキーワードを使い、かんでふくめるように日本代表にヨーロッパ的な組織サッカーを植えつけていきます。

当初ラモス瑠偉選手とオフト監督との間で確執があったようですが、「オフト・マジック」の効果は劇的でした。

1992年に自国開催となったアジアカップで初優勝、翌93年にカタール・ドーハで開催されたW杯アジア最終予選では、くしくも18年後日本代表が豪州を破り4度目のアジア制覇をはたす舞台となるハリファ・スタジアムにおいて韓国を1-0で撃破します。

W杯予選において日本が韓国に勝利したのはこれが史上初めてのことでした。

この勝利によって最終節を残し日本は予選首位に踊り出たのですが、次のイラク戦であのドーハの悲劇を迎えることになります。

イラクはアジアでは珍しい組織サッカーのチームで、それが最終戦の相手だったというところに何か因縁めいたものを感じるのですが、日本のストロングポイントだった組織力で互角、個の能力でもイラクは日本と互角以上ということで試合は2-2のドロー、日本は土壇場でアメリカ行きの切符を逃してしまいました。

組織サッカー最強の敵もまた、組織サッカーだったということなのでしょうか。

私は、W杯には行けなかったもののオフト氏のコンセプトはおおむね正しかったと思いますし、実際アジアのセカンドクラスに属し、長いあいだ中東勢や韓国に歯が立たなかった日本代表を短期間でアジアトップクラスに引き上げたオフト氏の功績は非常に大きいものでした。

 ところが94年W杯でブラジルが優勝したからでしょうか、次の代表監督にブラジルの往年の名選手パウロ・ロベルト・ファルカン氏が招聘されます。

ファルカンジャパンは同じ年の秋に開催された広島アジア大会にのぞみますが、UAEやカタールに苦戦、ミャンマーに勝ってグループリーグを何とか突破したものの決勝トーナメント初戦で韓国に敗れ、監督は解任されます。

ファルカン元監督で評価できる点があったとすれば次のエピソードでしょう。

試合に負けてスタジアムを去ろうとするファルカン氏に向かって、ある代表サポが空き缶をなげつけたそうです。

するとファルカン氏は「日本にも本物のサッカーファンが一人だけいたな」とつぶやいたとか。

もちろん空き缶を投げるのはいけないことですが、自分の出した結果についての批判は甘んじて受ける。

ファルカン氏もまた、本物の現場のプロだったと言えるでしょう。

 外国人では選手とのコミュニケーションが不安ということで代表監督に就任したのが加茂周氏でした。

加茂氏は80年代末にACミランで展開されたアリゴ・サッキ監督のサッカー戦術「ゾーンプレス」を日本代表に導入しようとします。

しかしアジアカップ96で問題が持ちあがります。

3戦全勝でグループリーグを突破した加茂ジャパンでしたが、決勝トーナメント初戦でカウンターからクウェートに2ゴールを浴び、早すぎる帰国への途につきます。

それ以降「カウンターへの恐怖」が刻みこまれてしまった日本代表は、点を取りたくて前へ前へ行きたい攻撃の選手とカウンターが怖くてズルズル下がるボランチより後ろの選手とでチームが分裂状態になります。

「ゾーンプレス」という戦術のキモは、バックからFWまでチーム陣形を25~30m以内にコンパクトに保つことですが、加茂ジャパンはカウンター対策として3バックを導入します。

しかしスイーパーを1人余らせる3バックはかえって陣形が間延びしやすく、やろうとしている戦術とシステムが明らかにミスマッチでした。

結局、抜本的な解決が図れないままW杯アジア最終予選で苦戦を強いられ、加茂氏は解任されます。

加茂ジャパンの方向性は決して間違ってはいなかったものの、チームとして戦術が消化不良になっていたように思います。

まだ日本サッカー界がヨーロッパの組織戦術を理解しきれていなかったせいかもしれません。

ピンチヒッターはコーチから昇格した岡田武史氏です。

予選終盤は中盤をダイアモンドにした4-4-2にしてW杯初出場を決め、フランスW杯では3-5-2で戦いましたが3戦全敗に終わります。

第一期岡田ジャパンは加茂ジャパンをベースにしていたので、チーム陣形はかなり間延びしたものでした。

 つづいて代表監督に就任したのがフランス人のフィリップ・トルシエ氏でした。

久しぶりのヨーロッパ人監督の起用となりましたが、彼はオフサイドトラップを多用しゾーンで守る3バック「フラットスリー」という独特の戦術を導入したことで有名ですね。

さすがに欧州系の監督だけに陣形をコンパクトにしようという姿勢も強く感じられました。

選手の育成も上手く、99年ワールドユース準優勝から始まりシドニーオリンピックベスト8、2000年アジアカップではすでに突破を決めて主力を休ませたグループリーグ最終戦以外すべて相手を90分以内で倒すという圧倒的な優勝、01年日韓コンフェデレーションズカップではフランスに次いで準優勝と「黄金世代」はステップアップ。

02年W杯では、日本代表を初の決勝トーナメント進出へと導きました。

W杯前の日本の目標は「開催国としての義務である決勝トーナメント進出」でしたから、トルシエジャパンは成功だったと思います。

W杯に出たことも無かった国がこれほど短期間のうちに決勝トーナメントに進出したことは快挙ですし、少なくともノルマは果たしたと言えるでしょう。

しかし多くの日本人がライバルと考える韓国が4位になったので、一部の人のやり場の無い不満がトルシエ氏に向かった面もあったのではないでしょうか。

もしそうなら日本サッカー界の目標設定にも問題があったように思います。

日本の目標は「決勝トーナメント進出」であり、韓国の目標は「常に日本より上になること」でした。

そして02年W杯では、それぞれの目標通りになったというわけです。

「韓国より下」で不満なのであれば、最初から「韓国より上になること」を明確な目標として位置づけるべきでした。

また決勝T1回戦のトルコ戦で、西澤選手をトップに三都主選手を1.5列目ぎみに置いたトルシエ氏の采配に批判が集中します。私も当時強い疑問を感じました。

南アフリカW杯直前に02年W杯の代表戦を録画映像で見直したのですが、初戦をのぞけば鈴木・柳沢の2トップが不発で、第3戦のチュニジア戦後半から柳沢選手の代わりに森島選手を入れて彼が先制点をゲットしたため、トルシエ氏が鈴木・柳沢の2トップをいじりたくなったのは、今ではわからなくもないと思えるようになりました。

もっとも、西澤・三都主起用の新システムという賭けは残念ながら成功しなかったのですが。

それでも当時、中田英寿選手がパルマ、小野伸二選手がフェイエノールト、稲本潤一選手がアーセナルへ移籍しており、日本サッカーに明るい未来が開けているように感じられました。

少なくともこの時点までは。

このように見てくると、欧州出身の監督が就任した時に、日本代表はめざましい進歩と勝利という結果を手に入れていることがわかります。

次回へつづきます。




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■コメント

■Re: 一つの時代の終わり・新しい時代のはじまり?(その2) [pp]

僕は日韓大会は満足してます。


韓国よりも下とも思っていません。


なぜなら彼たちがベスト4までいけた理由が何なのか
イタリア、スペイン戦を見た者なら誰だって分かるからです。


最後に、一つの時代が終わるかどうか分かりませんが、
アルゼンチンがロンドン五輪の切符を逃しました・・・


前回大会で圧倒的な力で優勝したアルゼンチンを知っているものなら衝撃以外の何物でもない大ニュースですよ


日本もちんたらやってると二の舞に・・・。
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